2017年春アニメで、いちばん物議を醸し、話題を総ざらいにしたのは
ほかでもなく『けものフレンズ』だろう。
ことの発端はふたばで広まったいわゆる『けもフレ構文』なのだろうが、
その後は作中の雰囲気・無駄のない展開力・構成力で魅せてきた。
なんて、堅苦しく始めたが、なるべくラフにいろいろと余地ができるように
『けものフレンズ』という作品とその旋風の背景について書きたいと思う。
もちろん1から10まで全部書いていたらキリがないし、
それほどネタバレに関与しない部分を中心にしていきたい。
ちなみに好きなフレンズはトキです。
1.けもフレ構文について
いわく、「IQが下がる」だの「脳が溶ける」ということばの原因になったのが
『けもフレ構文』だろう。
この始まりは『けものフレンズ』について語らっていたふたば民の
スクリーンショットが始まりで、Twitter民はその「パワーワード」っぷりから
こぞってこれを使いだした。(お得意のやつだ)
例を挙げると、
- 「すっごーい!」
- 「たっのしー!」
- 「きみは〇〇が得意なフレンズなんだね!」
と、サーバルちゃんやコツメカワウソあたりの発言を引用している。
実際これくらい緩い発言をしているのは彼女たちくらいなのだが…。
先述のとおりさも「幼児退行したかのよう」な態度に見えてしまうこの構文、
当然のように流行る。ご存知の通り流行った。
これが流行ったのが(体感で申し訳ないのだが)三話~四話のころだったと思う。
このころから一話の視聴回数がバカみたいにうなぎ上りし始めた。
現在(4/2)では『約4800000再生』とこれまたバカみたいな数字になっている上に、
未だにアニメランキング五位にランクイン、その上アニメカテゴリは
けもフレ関連で埋め尽くされるという流行りようである。
これはもちろん、フレンズたちの言葉遣いが視聴者以外の人間、
特に拡散力の強いTwitterユーザーにとってもわかりやすく「共通の土台」に
なりやすいものだったからこその結果と言えるだろう。
同時にこれらの発言、特に「きみは〇〇が得意なフレンズなんだね!」というセリフが
本作の「根本的な部分」であるということも重要だろう。これについては後述する。
1-2.「共通の土台」としての構文
なにかが流行する、あるいはなにかが作品として流通するためには「背景」が必要だ。
それが「共通の土台」で、今回は「構文」こそがまさにそれになった。
これは何も今回だけの例ではなくて、
例えば
- ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上。
- 私、気になります!
といったような、「オタっぽい常識ワード」だって土台にはなりうる。
むしろ、こういったミームを流行させることによって商業的成功を狙うのは
ビジネス的には王道と言ってもいい。
本作で(誰も予想してはいなかったのだろうが)「構文」が広く受け止められたのは、
誰も疑うところなく『けもフレ』の成功に関与しているだろう。
それにしても最初に言い始めたふたば民の先見の明というか、鼻の良さというか。
なんだか驚くべきものがあると思ってしまう。
1-3.「根本的な部分」としての構文
見るからにダメで、なんで生まれたかもわかんなかった僕を受け入れてくれて、ここまで見守ってくれて。
ありがとう。
元気で。
:11話より引用
かばんちゃんの発言。ここまでの自覚があることに感動してしまった(その後泣く)。
ところで、この発言はいろいろ考える余地のあるものだと思う。
少しクサいことを言うようだが、人や動物が生まれた理由は明確だろうか。
当然、そんなことはない。すべて当たり前に、気づいた時には存在してしまっている。
恐らく、作中で「生まれた理由」なんていうことに葛藤しているのは
かばんちゃんくらいなのかもしれない。
それはヒト故のことで、いくらかの人は自然とそういった疑問に往き付く。
では、フレンズはどうなのか。というより、ヒト以外の動物はどうなのかという話だ。
それは「きみは〇〇が得意なフレンズなんだね!」という承認なのだろう。
フレンズは当たり前に隣にいて、当たり前にその存在を互いに認めている。
素直に理想的な共同体だと思う。共同体の体をすら成してはいないが。
それでも社会として誰かが誰かを傷つけることはない。その必要もない。
これもまた「共通の土台」だ。
そこに姿の違う、能力の違うフレンズがいることは単なる常識で、
それ以上でもそれ以下でもない。なにもかもすべてが当たり前の前提。
このかたちは確かに自然的とは言えないものだ。
自然的に異なる種の存在はあるものの、その関係性はあくまで文化的だ。
もちろん、『けものフレンズ』の面白さとはその
「半分動物で、半分人間」
みたいな部分が大きいと個人的に思う。
だからこそ、今回「根本的な部分」としてこの言葉を取り上げた。
1-4. 正と負
「根本的な部分」、つまりテーマとしての言葉はあらかた書き終えたと思うのだが、
「構文」のこととなるとまだ全部、ということはない。
見出しには「正と負」などと書いた。
「正」をテーマの考察としてあてはめて、だとしたら「負」とはなにか。
今回はこの匿名エントリーを引用したい。
anond.hatelabo.jp
あまり長々と書いても仕方ないのだが、要するに「構文」本来の意味から
実際の使い方に乖離が見られて嫌だ、ということだ。
Twitterなどでは結局「きみは〇〇が得意なフレンズなんだね!」という言葉が
承認ではなく煽り、ひいては否定にさえ使われた。
まぁ一部の観測範囲でのそういった言動をいちいち気にしているのもどうなんだよ、
と思わなくもないのだが。
とはいえ、この言葉は「根本的な部分」であると先述した通りだ。
それを愚弄するような手段で使うのに嫌悪感を覚える人がいても仕方がないことだ。
ことに、『けものフレンズ』という作品は愛のこもった作品で、
そのテーマを一切受け取っていないとも取れる言動は視界に入れたくないと私も思う。
2. 背景世界について
さて、辛気臭い話はよして、本作がヒットするに至ったもう一つの要因であるところの
「背景世界の描かれ方」について話題を移したいと思う。
『けものフレンズ』は大いに「考察厨」と呼ばれる人種を賑わせた。
それについての反応も好き嫌い様々だとは思うが、
- セルリアンという明確な「敵」
- 絶滅したといわれる「人類」
- サンドスターとフレンズの関係性
- ジャパリパークの存在意義
などはストーリーと大きく関わってくるのだから、
おいそれと考察自体否定しても仕方ないだろう、ということでそれ関連書いちゃうゾ。
とは言ったものの、考証的な考察はするつもりはない。
2-1. 終末の美学
実際のところ『人類が滅亡した世界』を描けるか、というのは難しい話だろう。
なぜかというと、簡単に言えば「人類以外に人類を記憶する存在などいないから」だ。
そもそも現代に伝わる歴史についても、近代歴史学の成立を待たねば
碌に信憑性を期待できるものではない。
ヒトがいてそれならば、いなければそれ以上に記憶を残すのは難しいだろう。
なら、どうやって『人類が滅亡した世界』を描くか、ということなのだが、
「人類に相当する程度の知能を持つ生物ないし物体」を登場させるのが簡単だ。
例えば
- 『人類は衰退しました。』の「妖精さん」
- 『ヨコハマ買い出し紀行』の「ロボット」
- 『ニーア・オートマタ』の「オートマタ」と「機械生命体」
といったようなものがあげられる。
だがこれらの作品をご存知の方にとってみれば、
『けものフレンズ』はまた違う方向性だろ、と思われてしまうかもしれない。
『人類が滅亡した世界』といっても、これらは「人類の延長」としての未来だ。
妖精さんは人類の残り香を求めるし、ロボットやオートマタ、機械生命体は人類をある種記録するための存在だ。
人類が作り上げたものが後の生命に受け継がれる、という希望を人類以外に託す。
というのが「終末の美学」のひとつのかたちだと思う。
では、『けものフレンズ』の終末世界とは何なのか?
人類を記憶する存在すらいない、そんな滅びた世界なのだろうか。
2-2. 反対の「美学」
「終末モノ」は近頃人気がある。先ほど挙げた作品もそうだし、
『Fallout』や『マッドマックス』は最近になって復活を遂げた。
とはいえ、これらの世界は完全に『人類が滅亡した世界』ではない。
核戦争によって文明が滅却されたものの、人類は新しい社会を築いている。
たとえば『Fallout』では核シェルターから出てきた人々がNCRという共和国を築き、
あるいは核戦争を生き延びた子孫たちが部族を作り上げ、
独自の社会を構築しているという設定がある。
それは確かに人間の社会として成立しているものだが、実態としては
現代のものとはかけ離れていると想像することができる。
またたとえば『マッドマックス:怒りのデス・ロード』には、
核戦争後に生まれた「ウォーボーイズ」が、「木」を知らないという描写がある。
これがこういった「終末モノ」において現代の常識が通用しない好例だ。
「終末」は、常識や社会というバックボーンを破壊することで、
人間の新たな面を描ける可能性を秘めていると言えるだろう。
またそれは人間のより正直な、素朴な姿をさらけ出すための手段であるようにも思う。
2-3. 「けものフレンズ」の置かれるべき位置
上にて、二つの例を出したが、さて『けものフレンズ』はどちらだろう。
正直こうやって分類することは無粋にも思えるのだが、
敢えて言うなら二つの中間だと私は思う。
『2-1』で示したかたちが「過去を懐かしむ」ことであるなら、
『2-2』で示したかたちは「未来に進む」ということであると思う。
『けものフレンズ』は、けして過去を詳らかにすることを主題とはしていない。
けれども過去を描かないということはなく、かばんちゃんの人間的な知性や、
墜落した爆撃機の跡、遊園地等人間が残したものをむしろ強調して描いている。
これがどういうことを示すのか、ということは推し量るしかないのだが、
少なくとも物語にとって過去はそれほど重要なことではない。
むしろ、フレンズたちとかばんちゃんの交流が中心で、
過去の悲惨な出来事について誰かが悲しむようなことはない。
彼女たちにとって過去の文明はもはや郷愁の対象ではないのかもしれない。
だがかばんちゃんにとっては過去は自分を知るための足跡で、
少なくともその点においてだけは「過去を懐かしむこと」が目的になっている。
しかしそれは「未来に進む」ためのことだ。
だからこそ、本作はどちらとも言い難い。
人類がいたはずの世界を懐かしみつつ、新しいフレンズたちの世界を楽しむ。
そういうバランスのいい描写の仕方が、大きな魅力になったのだと思う。
3. 全体としての感想
『けものフレンズ』は『1』の項目で触れたように、「半分動物で、半分人間」という存在と、人間の交流を描いた作品だ。
だが、その垣根は曖昧で、その区別自体が無意味なものなのかもしれない。
フレンズたちは新しい常識、新しい「共通の土台」に拠る社会で幸せに暮らしている。
それは「構文」のように視聴者にも親しみやすい緩さを持っていて、
誰しもを受け入れるだけの懐の広さがある世界だ。
それを甘受することは簡単なのだろう。
その点本作にとって「過去」、つまり背景世界は重要ではない。
だがかばんちゃんにとってはその限りではない。
先に書いたように、人間の足跡が彼女自身を知る道標なのだから、
自分を知ろうとすれば自ずと過去に向き合わなくてはならない。
その物語を、本作は奇妙ともとれるようなバランス感覚で描いた。
その結果として、「終末モノ」でありながら悲惨になりすぎない、前向きな物語になったのだと思う。
などといろいろ書いた。書いたものの、自分でも
「これはちょっと重すぎるなぁ」
と感じたのでちょっとかみ砕こうと思う。
『けものフレンズ』はみんな仲良く未来に進む作品だ。
誰かを理不尽にけなすこともないし、騙したり騙されたりしない、そういう素直で素朴な物語だ。
誰かとともにいる自分を見つめて、慈しみ合うことの大切さを描いている。
それくらいの気持ちでいいんじゃないかな、と感じたし、それくらいの気持ちでありたいと思うような優しい作品だった。